猫海1870(リアクション)

猫海1870

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登場人物一覧
恵御納 夏朝:夏刻(なつき)【陰陽師】【探検家】
樹雨 蓮太朗:蓮雨(リィェンウ)【道士】【諜報員】
仲秋 薫:清薫(チンシュン)【奇科学者】【高き者】
神嶋 征一郎:征上帝(ゆきがみ みかど)【新撰組】【芸術家】
常闇 月:常闇月(とこやみ ゆえ)【魔術師】【破魔戦士】
神野 美野梨:神野美野梨(かみの みのり)【奇科学者】【陰陽師】
新井 すばる:すばる(すばる)【拳法家】【諜報員】
新田 亮:新田亮(にった りょう)【諜報員】【陰陽師】


 猫海(ニャンハイ)の下町は、胡同(フートン)と呼ばれる狭い路地が入り組んでいる。ごみごみとした周囲の建物のせいで昼でも日差しが弱く、地元の人間でなければものの数分で迷ってしまいそうなその道を、一人の少女が歩いていた。古風な狩衣に身を包み、大きな荷物袋を手に下げた彼女の名は夏刻(なつき)【恵御納 夏朝】という。日本から渡ってきた旅の陰陽師だ。
 猫海の地の名を聞いた時、猫を愛する彼女は思った。ここにはきっと、猫が多くいて海のようになっているのではないか、と。実際に来てみた今、彼女は自分が少しばかり遅れてこの地に着いた事を知った。地名に名を残す多くの猫たちは、かつては確かに土地の守り神として敬われていた。しかし最近は猫廟もさびれ、祀る者も減っているという。
「猫さんの神様、会ってみたかったなぁ」
 灰色と白の石で作られた猫廟の神像に拝礼し、夏刻はふらりと胡同の狭い道に戻った。袖から数枚の呪符を取り出し、猫式神を周囲に放つ。ほどなくして夏刻の耳には、みいみいという猫式神たちからの報告が返ってきた。
「右に曲がると行き止まり。まっすぐ行って左に曲がると大通りに出る。こっちの狭い道は空き地につながって……猫さんの集会場所!?」
 夏刻にとってはその情報だけで充分だった。荷物袋を抱きかかえ、狭い道を足取り軽く進む。
「わぁ……!」
 開けた先の空き地にいたのは、猫、猫、猫。海とまでは言わないものの、おびただしい数の猫だった。もう一歩踏み込もうとして、夏刻は気づく。ここにいる猫たちは、目的を集まっているという事に。
「もしかして君たち、猫神様の?」
 印を切り、夏刻は確信した。この猫たちは猫神の力を継ぎ、胡同の闇を祓うためにここに集まっている。
「そっか。それなら僕も、協力するね。みゅーみゅーにょりつにゃー!」
 夏刻の改猫(かいびょう)陰陽道が発動した。集まった猫たちと力を合わせ、猫式神が物陰に巣くう闇を削り取ってゆく。
「このぶんだとまだ……」
 夏刻は猫たちに礼を述べてから、別の闇の気配に向かって歩いて行った。

 妻の墓前に線香を供えるのが、彼女を失って以来、蓮雨(リィェンウ)【樹雨 蓮太朗】の日課になってしまった。
 もはや涙は枯れ果てた。うつろな目つきで手を合わせた後、蓮雨は一人きりの朝食を摂り、のろのろと楽器店「四月雨」の表戸を開く。
 客の少ない午前中、配達の注文を受けていた古いヴァイオリンの荷造りをしていると、変わった客が入ってきた。狩衣を着た少女だ。少女は店内をぐるりと見回し、蓮雨で視線の動きを止めた。
「危ない」
 小さな声でそう言うと、少女は荷物袋から、猫の形をした人形を取り出した。手の平に載せて差し出し、
「これ、魔よけの猫お守り。サービスでお祓いも付けて安くしておくけど、どうかな? このお店、陰の気が溜まり過ぎている」
「ああ」
 蓮雨は鼻を鳴らした。
「そんな事は分かっていますよ。それに、お守りなら、もう必要ありません。一ト月ばかり遅かった」
「そう?」
 少女は人形を引っ込めると、代わりに袖から一枚の呪符を出した。
「じゃあこれ、プレゼント。もし効き目があったと思ったら、猫さんに、ごはんをあげてくれない?」
 そう言い残して、彼女は呪符を押し付け、「四月雨」を出て行った。
 蓮雨はしげしげと、少女の置いていった呪符を眺めた。道術を操る蓮雨には、それが浄化の力が込められた物だと分かった。けれど、この店と蓮雨自身が持つ陰の気は、呪符一枚で浄化しきれるものではない。果たして呪符は、浄化の力を使い尽くし、くしゃりと縮んでカウンターから床に転がった。
「ええ、そうでしょう」
 蓮雨はぽつりと言った。まざまざと見せつけられた気がした。
 あとで野良猫に餌をやろう、と蓮雨は思った。

 七虹賓館(レインボウホテル)は名前の通り、7部屋の特上客室がある事で知られている。しかし実はもう一部屋、8番目の特上客室がある事を知る者はほとんどいない。従業員に「黒の間」と呼ばれているその部屋には、賓館の創建当時から、一人の女が住んでいた。本名かどうかは知る由もないが、少なくとも今は清薫(チンシュン)【仲秋 薫】と名乗っている。
 彼女は美しいものを愛していた。「世の中は美しいものに満ちている」と言い、気まぐれに美しいものを手元に取り寄せていた。その奇科学の才と財力を振るえば、猫海のすべては清薫の前に平伏する。
 今日は、数日前に買い付けた古いヴァイオリンの届く日だ。黒の間のドアからノック音が響くと、彼女は人の気配が去ったのを確認してから荷物を引き入れた。
「なるほど、これは銘品ですね」
 一瞥して価値を見抜いた清薫は、その美貌を覆うヴェールの奥でうっそりと笑った。あとは、他所で目を付けた弾き手が現れるのを待つばかり。
「征上(ゆきがみ)殿はまだかしら?」
 軽く弾んだ声で清薫は呟いた。長く鎖国を続けていた日本の出身でありながら、若き天才ヴァイオリニストとして名を馳せた青年の名を。今はもうヴァイオリンを弾いていないとも聞いたが、構う事はない。この猫海で、清薫の手に入らないものなどないのだ。
 耳を楽しませながら、目も楽しませよう。清薫はさらに考える。殺人現場に残されるという、血で描かれた萩の絵。その絵も是非とも目にしたい。手元に置きたい。飽きるまで鑑賞したら、あとはどうでも良い。

 征上帝(ゆきがみみかど)【神嶋 征一郎】は「招待状」と書かれた麗々しい便箋を破り捨てた。今の自分はもう、神童と呼ばれたヴァイオリニストではない。一介の新撰組隊士だ。たとえ招待主が、あの清薫であろうと、誓いは変わらなかった。
 猫海で退魔警察の任に着く新撰組は、これまで多くの怪事件と戦っていた。帝もヴァイオリンを拳銃に持ち替え、清められた弾丸で数知れぬ闇の者を葬ってきた。
 その中にあっても、今回の事件は異常だった。
「また萩の花、か」
 昼下がり、同僚の隊士から報告を受け、帝は苦り切った表情を浮かべた。
 日本刀で切り裂かれた死体と、被害者の血で描かれた萩の花。この組み合わせが報告されるのは、自分からの報告も含めて、もう何件目だろうか。動機が見えないのが何より気にかかった。
「自分も現場に行く」
 洋式の軍服をまとい、帝は胡同を走った。
 現場は凄惨な有様だった。遺体は死後半日というところか。つまり犯行時刻は今回も夜中と見て良いだろう。血の臭いに引き寄せられたのか、すでに異形の者の気配がそこかしこから漂ってくる。帝は眉を寄せた。このままでは新たな闇が生まれかねない。愛銃を手元に滑らせる。
「……?」
 一瞬の出来事だった。殺人現場を取り巻く異形たちの気配が消え失せた。
 代わって現れたのは二人の少女だった。一人は、金髪碧眼で大剣を手にした黒い鎧の女騎士。もう一人は、右手に糸の束、左手に旅行鞄を持った旅装の少女。奇妙な取り合わせだった。
「何だ、てめぇらは?」
 油断なく帝は声をかける。
「魔を狩る者です」
 答えたのは、戦いに縁遠く見える旅装の少女の方だった。女騎士は何も言わずに立っている。
 その言葉からすると、彼女たちが周囲の異形たちを一掃したようだった。さすがの帝も、やや気圧される。
「この街の闇は随分と深いようです。あなたも気を付けて」
「生憎と、自分はそれが仕事でね」
 帝の言葉を聞いていたのかどうか、旅装の少女は帝の横を通り過ぎて行った。女騎士の姿はいつの間にか消えていた。

 陰陽道に機械装置を持ち込むという発想は、おそらく神野美野梨【神野 美野梨】以前にもあっただろう。しかし、彼女ほどその発想を現実に反映できた人間がいない事も、また確かだった。
 研究熱心な美野梨は、研究素材を求め、寸暇を惜しんでは猫海の方々を歩き回る。今日は知人と会う約束があったが、待ち合わせの時間までに一つ、実地調査を済ませる予定でいた。
「これはなかなか興味深いわね。……あら?」
 陰と陽のバランスが崩れた場所を追って歩くうち、気が付けば美野梨は、胡同の中で道に迷っていた。
「仕方がないわ」
 美野梨は式神を放ち、道を調べさせようとした。しかし空に昇りかけた式神は、塀の向こうから飛び出してきた黒い影に襲われ、あえなく散ってしまう。人の頭ほどもある異形の鼠だった。
 闇の者?
 美野梨がそう察した次の瞬間、異形の鼠は空中で向きを変え、美野梨を目がけて猛スピードで迫ってくる。美野梨は息を呑んだ。
 硬い金属質の音が胡同に響いた。
 異形の鼠と美野梨の間に、鎧姿の女騎士が割り込み、鼠の進撃を大剣で抑えている。次いで鼠の背後から、挟み撃ちするように幾筋もの糸が襲いかかった。糸が鼠を寸断する。ぼろぼろと崩れ地面に落ちた鼠の残骸をぎしりと踏みにじったのは、旅装の少女だった。
「本当に、この街は闇が多すぎる」
 不快そうに言って、旅装の少女はなおも、周囲に目を走らせた。しばらくののち、旅装の少女は短く息を吐いた。
「今はこの場は安全なようです」
 旅装の少女の言葉に、美野梨は礼を言ってから、切り出した。
「先ほどはありがとうございました。ところで、ぶしつけな事を聞きますけど、こちらの鎧の方、人間ではありませんね?」
 旅装の少女がわずかに瞠目する。
「よく、お気づきで」
「おそらくは人形、それも人の魂を核としていると見ました」
 旅装の少女はこくりとうなずいた。
「ご明察です。鎧姿からフランドールを人形だと見抜いた方も、その正体を正しく見て取った方も、あなた以外にそう多くはいません」
 美野梨は微笑んで答えた。
「私も、似たような存在の研究をしていますので」
「そうでしたか。私は常闇月【常闇 月】、魔を狩る『人形遣い』です。ご縁がありましたら、またお会いしましょう」
「その前にもう一つだけ、よろしいかしら?」
「私のできる範囲でしたら」
「中央通りに出る道まで、ご一緒してもらえると、助かります」
 道に迷っていたのを思い出し、美野梨は少し恥ずかしそうに、月に頼んだ。

「ごめんなさい、お待たせしてしまったわね」
 大通りの一角、待ち合わせ場所の飲茶楼に着いた美野梨は、腐れ縁の友人のすばる【新井 すばる】に声をかけた。
「ああ、気にしないでよ。待っている間、新聞で気になる記事を読んでいたから」
「ふうん、どんな記事?」
「神野さんも噂くらいは聞いていないかな? 萩の花の殺人犯。また新しい事件を起こしたらしくってね」
「物騒だわ」
 興味を覚えつつも、美野梨は静かに返した。
「花だけ血で描いて萩と分かるのは凄いね。大した画才だ。それに刃先で描いたのなら相当の手練れだろう。こんなことするより、道場主か植物学者にでもなった方がいい」
 単なる新聞記事から、すばるはそれだけの情報を読み解いているらしい。この手の話をする時に目の輝くすばるを、美野梨は決して嫌いではなかった。
「画才のある手練れ、ね」
 美野梨の脳裡に、ふっと一人の少女の姿が浮かぶ。美野梨の表情に何かを感じたのか、すばるが聞いてきた。
「該当する知り合いでもいる?」
「悪趣味よ、すばるくん」
「これは失敬。でも、知り合いが容疑者にされるのを食い止めるのも、必要だと思わないかい?」
 言われて美野梨は考えた。
 条件に該当する知人がいるのは確かだ。引き合わせれば、すばるはそうした目で相手を見るだろう。しかしそれが逆に、彼女への疑念を晴らす事につながるかもしれない。
「いいわ。ちょうど今日の夕方に会う約束があるから、その人を紹介します。けれど、先方は身分のある人だから、あまりおかしな事はしないでくれるかしら?」
「ああ、わかっているさ。夕方ならボクも時間が取れる」
 すばるはウィンクをしてみせた。

 美野梨との軽食を終えたすばるは、中央通りの端に居を構える小さな建物に入って行った。黄探偵事務所の所長・黄英図(こうえいと)は、すばるの顔を見ると無愛想に言った。
「本部から打電が入った。局長がこっちに渡って来る」
 すばるは肩をすくめた。
「それはそれは。何をしに?」
「知らん」
「探偵も客商売なんだからさ、そういう接客は良くないと思うよ?」
「本物の客ならともかく、お前を相手に取り繕う必要もないだろう」
「まあね。同期の仲だし」
 黄英図は本名を新田亮【新田 亮】という。彼とすばるは、猫海に潜伏する日本の諜報員である。亮は陰陽道を、すばるは幻の拳法と呼ばれたバリツを、それぞれ特技としており、諜報局の同期生として顔を合わせて以来、コンビを組んで任務に当たった経験も多い。
「局長が来る前に、片を付けておかないとな」
「そうだね。例の事件の犯人が新田くんの読み通りなら、ちょっと困る事態だ」
「俺も洗ってはいるが、そっちはどうだ?」
「伝手があって、これから会いに行く予定だよ」
 亮は舌打ちした。
「手が早いな。喰えない奴だ」
「お互い様。新田くんだって目星は付けてるんだろう?」
 本条萩。それが二人の諜報員の追う人物の名だった。明治維新で猫海に亡命中とは言え、徳川家の有力な家臣である本条家は、この極東での外交上のキーパーソンと言って良い。その一人娘である萩が、街を揺るがす殺人鬼だったとなれば、もはやスキャンダルの域では収まらない。もしそれが真相なら、表沙汰にならないよう、早急に対応する必要があった。
 黄探偵事務所の窓から、ガラスをノックする軽い音が聞こえてきた。そんな手段で連絡してくる相手を、亮は一人しか知らない。
 窓ガラスを開けると、いつものように機械仕掛けの伝書鳩がいた。
「へえ、奇科学かい? 神野さんが好きそうだ」
 すばるが伝書鳩を眺めて言った。亮は伝書鳩から受け取った手紙に目を通した。
『黄英図殿 死者の血で萩の花を描く方がいると聞きました。連れて来てください。清薫』
 傲然とした一筆に、亮は承知の旨を短く書いて、伝書鳩を送り返した。
「猫海の女王も、この事件に興味があるらしい」
「ははは、VIPだね」
「どうだかな。あの御仁が欲しがるようじゃ、ろくな事にはならないと思うぞ」
 そう言いながらも、亮は内心、これはチャンスかもしれないと考えていた。犯人の身柄を清薫に押し付けてしまうというのは一つの手段だ。過去に依頼を受けた経験からすると、清薫に呼び寄せられた者は、そこで何があったのか、皆一様に記憶を失っている。今回の事件の犯人もあるいは、という算段があった。
 とは言え、現在の目的が変わったわけではない。正体が本条萩であるにしろ別人であるにしろ、萩の花の殺人鬼を探さなければならない。

 七虹賓館の黒の間にヴァイオリンを届けてから、蓮雨は「四月雨」の店番に戻った。そこへみすぼらしい服装の男が現れた。
「ああ、お仕事ですか」
 蓮雨は無感情につぶやいて、男の差し出した紙を受け取った。薄汚れた紙には、特殊な墨と暗号で二重に封された指令が書かれている。今回は珍しい事に最重要事項の印が押されていた。
『7368号 萩の花の殺人鬼を七虹賓館の黒の間へ連行せよ。必ず生かしたまま届ける事』
 目を通し、蓮雨はかっと頭に血が昇るのを感じた。
 萩の花の殺人鬼を探せる。しかし殺してはいけない。二つの思いがせめぎ合う。
 蓮雨の裏の顔は、清朝中国政府の諜報員である。かつて彼は、殺害の任務を受けた標的の女性と恋に落ち、一度は足を洗った。隠れ蓑に過ぎなかった楽器店を本業に替え、夫婦二人、つつましく暮らしてきた。
 しかし彼女はもういない。一ヵ月前、血で描かれた萩の花の絵と共に、無残な姿となって発見された。それを機に、蓮雨は諜報局に舞い戻った。任務離反という重罪を犯した身だが、当局にとっては、それを差し引いても利用価値があると判断されたらしい。
「殺せという指令なら、ちょうど良かったんですが」
 蓮雨は思った。任務離反をするのは、これで二度目になるだろう。
「なんだ。あのヴァイオリン、売れちまったのか?」
 友人の声で、蓮雨ははっと我に返った。軍服姿の帝が、空になった棚を心持ち残念そうに見つめている。
「オリアスですか? ええ、さる方からご注文をいただきまして」
「そうか……」
「もう弾かなくても気にはなるんですね」
 蓮雨はくすりと笑って見せる。いつものように。
「うるせぇよ」
 帝がむくれた。そう、いつもどおりだ。
「相変わらず、萩の花の事件を追っているんですか?」
 蓮雨がさり気なく水を向けると、帝は苛立たしげに答えた。
「ああ、ついさっきも一件、報告を受けてきた。人の命弄びやがって……。これ以上血は流させねぇ。止めてみせる。捕まえて罪償わせる」
 それから蓮雨に目を戻し、
「悪い、貴方の前でこの話はしない方が良かったな」
「いえ、構いませんよ」
「事件はほとんどが夜中に胡同で起きている。陰陽寮の連中に言わせると、陰の気が溜まりやすいんだそうだ。だから貴方も、夜の胡同にはなるべく近づかない方がいい。それと花だ。今までの報告書を洗っていて、やっと共通点を見つけた。被害者は花模様の服や髪飾り、あるいは本物の花、とにかく花を身に着けている。どうもそれが犯人を引き寄せているらしい。この情報は今、新撰組の広報班から全力で流している」
「ご忠告ありがとうございます」
 今夜さっそく花を持って胡同に行こう。蓮雨はそう考えた。

 本条家の門の前で、美野梨は再度、すばるに釘を差した。
「すばるくん、くれぐれも失礼のないようにね。萩さんは薬の提供をしていただいている、大事な支援者なんだから」
「ははは、神野さんは心配性だなあ。大丈夫だよ」
 客間に通された二人の前に、萩が現れた。
「こんにちは。今日は友人を連れてきました」
「はじめまして。すばると言います。他人の知らないことを知るのが仕事です」
 美野梨の紹介を受けてすばるがそう言うと、萩は小首をかしげた。
「ふむー? 萩の名前は本条萩です。よろしくお願いします」
 そこに侍女が現れ、日本茶と茶菓子、それに大きな木箱を置いて去って行った。
「こちら、お約束の薬類です」
「いつもお世話になります」
 美野梨が深々と礼をすると、萩はのんびりした笑顔を浮かべた。
「いえいえ。美野梨さんの研究は、世の中で役に立つものだと思っていますから。萩は絵を描くことくらいしかできないですからね」
 「絵」という単語が出てきて、美野梨とすばるは内心で緊張する。
「最近は、どんな絵を?」
「相変わらず、お花の絵が好きです。最近の作はあれですね」
 そう言って萩が示したのは、客間に飾られていた大きな屏風絵だった。色とりどりの花が咲き乱れている。
「萩さんの絵は相変わらず見事ね」
 実際それは、趣味の域を超えた水準の腕だった。
「お嬢さんの名前の萩の花は、この中に無いようですね」
 すばるが目ざとく言う。
「ええ、以前は大好きでよく描いていたんですけど、このところどうも描き飽きたような気がして、入れませんでした」
 なぜ彼女は、萩の花を描き飽きたのか。深まる疑念を胸に、二人は本条邸を辞去した。

 猫海の日が暮れてゆく。夏刻は今夜の宿と決めておいた胡同の空き家に向かった。萩の花の殺人鬼も出るせいか、猫お守りはよく売れた。おかげで数日分の食料が手に入った。お守りを買わなかった楽器屋の店主の暗い顔を、夏刻はふっと思い出す。
「ああいう人には、持っておいてほしかったんだけどな」
 そうつぶやきながら空き家に入ると、先客がいた。鞄を持った旅装の少女だ。旅装の少女は夏刻が入ってくるのを気配で察していたらしい。
「お邪魔しています。どうもほかに良い空き家が見つからなかったので、一晩ご一緒させてもらえませんか?」
 どうやら悪人ではなさそうだと判断し、夏刻は緊張を解く。
「どうぞ。ここは広いみたいだからね。僕は夏刻。旅の陰陽師だよ。君は?」
「私は常闇月。魔を狩る『人形遣い』です。猫海へも魔を狩るために渡って来ました」
「ふうん?」
 聞いた事のない術式に夏刻が首を傾げると、月は補足するように、
「西洋で修行を積んだ魔術師の子孫です。魔力を糸として繰り、人や人形を操り使役する事を得意としています」
「そうなんだ。僕の得意技は改猫陰陽道。式神を使ったり、お守りを作って売ったり」
 そこまで言ったところで、夏刻の腹が音を立てた。夏刻は照れ笑いを浮かべ、
「そう、今日はお守りがたくさん売れたから、ご飯もたくさんあるの。猫さんに上げる分は残しておかないとだけど、君も食べる?」
「よろしいのですか? それでしたら、お言葉に甘えたいと思います」
 二人の少女は向かい合って夕食の時間を始めた。
「この街、だいぶ気が澱んでいるね。何か原因があるのかも」
 とは言え話題は、いささか物騒だ。
「昼間、闇に汚染された異形の鼠を見ました。それ自体は無事に倒しましたが、あるいは他にも、同類がいるかもしれません」
「鼠、かあ。そう言えばこの街は、昔は猫の神様が護っていたって聞いたな。関係あるのかも」
「そうでしたか。有り得る話です。鼠にせよ他の魔物にせよ、魔に関わる者としては、人々の為にも危ない魔を仕留めなければなりません。それが私達の一族の生き方でもあるのですから」
 毅然と言う月に、夏刻は微笑んで、
「食べ終わったら、夜の胡同を調べてみる? 夜は魔の刻、危ない時間帯だから、何かに会えるかも」
「行きましょう」
 月は夏刻にもらった餅を飲み込んで、すっくと立ち上がった。

 黒の間の厚いカーテンの隙間から、清薫は夜の猫海を見下ろす。すでに複数の手を使って、萩の花の殺人鬼を探すよう手配はしてある。清薫自身も奇科学製の機械蝙蝠で、現場を眺める積もりでいた。
「血で描いた萩の花とは、なんて麗しい命の終わりでしょう。そのような幕引きを担う方、私是非会ってみたいわ。死神のように冷たい目をした美丈夫かしら? 描く花のように儚いお嬢さんかもしれない。いずれにせよ、萩の花を捉えるその一部始終、楽しませて頂きます」
 清薫の胸は期待に高鳴っていた。
 ただ待つばかりでなく、それ以外の観察対象にも、機械蝙蝠を飛ばしてある。
「人の生き様はそれぞれですね。どのような人にも須らく美しく輝く瞬間というものはあるもの。それを眺めるのが私の楽しみなのです。我が奇科学にかかれば、この街で見られない場所はありません」
 また新しく、機械蝙蝠が観察対象を見つけてきたようだ。狩衣の少女と旅装の少女が、何かを探すように胡同を歩いている。二人ともただの少女ではなさそうだ。
「あらあら、こちらも何か、面白くなりそうですこと」
 清薫は機械蝙蝠に、二人の観察の継続を命じた。

 「四月雨」の表戸を閉じた蓮雨は、手向けの花束を手に、店の裏口から出た。
「どこに行くんだ?」
 声をかけられ、びくりと振り向くと、帝が立っている。
「今日は、妻の月命日ですから。現場に花を供えようと思いまして」
 それは本当だった。先月の今日、妻は命を落とした。
「そうか。だが昼間にも言ったとおり、夜の胡同は危ねえ。花なんぞ持ってたらなおさらだ。付き合うぜ」
 口ではそう言っているものの、蓮雨を警戒しているのは明らかだった。素人が相手ならば、蓮雨もプロの諜報員、隠れて逃げ切る自信はある。しかし相手が帝では分が悪かった。
 ――仕方ありませんね。
 蓮雨は道術で帝の感覚を一時的に鈍らせた。次いで幻像を作り出し、自身の偽物を帝の隣に置く。最後に遁甲術を使い、蓮雨はその場を脱して胡同の奥へと向かって行った。
 もうすぐ、もうすぐ会えます。

 普段ならまず着ないような花模様のチャイナドレスに、美野梨は顔を真っ赤にした。
「ねえ、本当にこれ、着ないとだめかしら?」
「新撰組からの情報でね。夜の胡同で花を身に着けていると狙われるんだってさ。興味深いと思わない?」
 すばるは平然とウィンクしてみせる。それを言われると、美野梨も強くは言い返せない。最終的に花模様のチャイナドレスに着替えた美野梨を見て、すばるは満足そうに頷いた。
「それじゃあ行こうか。援軍も呼んである。犯人、本条のお嬢さんじゃないといいね」
「ええ……」
 夕方に会った限り、疑念はかえって深まっていた。念のためにと、美野梨は帰り際、萩に式神を付けていた。これまでのところ反応はなかったが、そのまま朝までもつという保証はどこにもない。
「!」
 式神から美野梨に通信が入った。本条萩が日本刀を手に、胡同へ向かったと言う。
「萩さん……」
 買ったばかりのチャイナドレスに泥が付くのも構わず、美野梨はがくりとその場に膝をついた。
「お嬢さんを止めよう」
 飄々とした落ち着きを崩さないすばるの言葉が、とても力強く感じられた。

 猫式神が夏刻に、闇のひときわ濃い一角を知らせて来た。
「確かにこれは、ひどいね」
「ええ、ひどいものです」
 現場に着いて夏刻と月は顔をしかめる。そこは異形化した鼠の巣だった。数知れぬ鼠たちがうごめき、ところどころで共喰いさえしている。
 鼠たちが二人の侵入者に気づき、群れをなして襲い掛かってきた。
「フランドール!」
 月の鞄から女騎士が現れ、大剣を振るう。月自身も魔力のこもった糸を張り巡らせて鼠たちを捕らえる。夏刻は猫式神の軍勢を指揮していた。
「みゅーみゅーにょりつにゃー!」
 数で勝っていた異形の鼠たちは、しかし、次第に少女たちの力に押されていく。やがて形勢は完全に逆転した。異形の鼠たちは散り散りになって逃げてゆく。
「行かせませんよ」
 鼠のほとんどは月の糸に絡め取られていった。
「これで一安心、かな?」
「どうもこの鼠たちは、中世の黒死病のように、闇を感染させる力があるようです。一匹でも逃がせば、また闇を感染させてゆくでしょう」
「そう? じゃあ、もう少しやろうか」
 二人の少女は捜索範囲を広げ、異形の鼠を念入りに探しては消滅させていった。
 月が鼠を追っていると、鼠はチャイナドレスの女に襲いかかろうとしていた。すかさず糸を放って捕らえる。捕らえきれなかった鼠は、女の隣にいた男が奇妙な武術で仕留めていた。
「あら、月さん? また助けられてしまったわね。ありがとう」
 チャイナドレスの女から声をかけられた。彼女は昼にも会った美野梨という女だった。月は鼠の正体を教え、警戒を促す。すると美野梨は、月の説明を聞いて、何か思いついた様子だった。
「鼠が闇を感染させる。つまり鼠を……。ありがとう、月さん」
「いえ」
 間に合うかもしれないわ、という美野梨のつぶやきを、月は深く気に留めなかった。今は鼠狩りが最優先だ。

 亮の元へ、彼の式神たちが返って来た。片方は本条家の見張り、もう片方はすばるに預けておいたものだ。式神たちは、本条萩が胡同に向かった事と、すばるが囮を使って胡同に向かう事を告げた。
「出番だな」
 本条家という交渉のコマを今ここで失う訳にはいかない。そのためには萩を切り捨てさせる必要がある。
 亮は、清薫から届けられた小さな壷と、裏工作用に準備しておいた贋造の勾玉をポケットに入れ、黄探偵事務所を出た。

 無言で歩き続ける蓮雨に帝が違和感を覚えるまでには、しばらくの時間がかかった。不審に思って、肩を揺さぶろうとし、そこで初めて、相手が蓮雨の作り出した幻像だと気づく。
「どこに行った!?」
 迷路のように入り組んだ胡同で人探しをするのは容易ではない。しかも相手は幻術と隠密のプロだ。途方に暮れていると、
「今夜も萩の花か?」
 知り合いの声がした。現地の探偵の黄がいた。
「そんなところだ」
「俺もそいつを追っている。なあ、貸し一つで情報を出せるぞ。今すぐに役立つやつだ」
 抜け目の無い探偵に、帝は渋い顔をしながらも、
「分かった。その情報、買うぜ」

 妻の遺骸が見つかった場所で、蓮雨は花を手に佇んだ。血で描かれた禍々しい萩の花が脳裡に浮かび上がる。
 萩の花言葉は思案、想い…何を伝えようとしているんだろう。僕にはどうでもいいけれど、報いは受けてもらわないと、ね。
 自分を救ってくれた妻を、自分は救えなかった。その後悔が苦く渦を巻く。
「ぬー、お花は赤い萩に限ります」
 おっとりとした調子の少女の声が聞こえた。抜き身の日本刀を手にした少女が、ゆらりと目の前に立っている。
「赤い萩にしましょう」
 そうつぶやくが早いか、少女は日本刀で切りかかってきた。
 この娘が、きさを……!
 蓮雨は縮地術を使い、充分な間合いを取って斬撃を回避した。
「嗚呼、会いたかった。早速だけどここで死んでもらいますね? 永別了」
 使う時は死を覚悟しろと言われた強大な呪符を、蓮雨はためらいなく取り出す。印を切って封印を解こうとしたその時、銃声が響いた。
「ぐっ!?」
 蓮雨の手に激痛が走り、ぼたぼたと血が流れ落ちる。蓮雨の手を離れた呪符は、夜風に乗ってはらりと宙に舞う。
「ッさせねぇ! 貴方がしている行動は、彼女を悲しませるだけだ」
 それは、置き去りにしたはずの帝の声であった。

 蓮雨の手を掠め撃ちしてから、帝は改めて犯人に向き直る。徳川家の屋敷で見憶えがあった。
 同い年ぐらいか? それも女…あの顔どっかで。そうか、本条家の一人娘! 何とか押さえる方法はねぇのか。お前みたいな奴を救うのが自分達の仕事だ。
 少女の背負う闇の気配は、明らかに異常な量だった。牽制のために銃を撃っても、少女は全くひるまない。軽い身のこなしで踏み込んでは白刃を振るってくる。手詰まりだ。弾込めのわずかな隙でも見せれば、彼女が踏み込むには充分な時間となるだろう。
 突如、銃声と共に、少女の体がぐらりと傾き、倒れた。右足から血が飛び散り、着物の裾を朱に染めてゆく。
「甘いぞ、新撰組。俺ならこうする」
 探偵の黄が、拳銃を構えた姿勢のまま言った。

 もし萩が、鼠によって闇の別人格を呼び出されたのだとしたら、鼠の呪いを解除すれば、あるいは萩を止められるのではないか。
 仮説の上に仮説を重ねた脆い理論だったが、美野梨はその可能性に賭けるしか無かった。奇科学の知識を総動員し、部品を組み合わせて間に合わせの解呪装置を作り出した。
 式神の伝えて来る位置情報を元に現場へたどり着いた時、萩は日本刀を杖のように地面に突いて立っていた。足からおびただしい量の血が流れているのが、夜目にもくっきりと分かる。
「萩さん!」
 悲鳴に近い声を挙げ、美野梨は萩に駆け寄ろうとした。
「今は駄目だよ」
 それを制したのはすばるだった。
「素人のボクでも分かるんだ。神野さんが気づいてないわけないだろう? 今のお嬢さんに近寄るのは危険すぎる」
「でも……!」
「危ない事はボクがやるよ」
 言うが早いか、すばるはバリツの身のこなしで萩との距離を詰めた。そして萩が地面から刀を抜くより早く、美野梨の解呪装置を萩に貼り付ける。装置は唸りを挙げ、萩の闇を吸収し始めた。萩の体が支えを失ったかのように崩折れる。
「おい、すばる」
「黄くんの仕事の邪魔はしないさ。お嬢さんの身柄はきみに引き渡す」
「すばるくん!?」
 黄は美野梨を無視して、清薫の壷を取り出した。壷を萩に放り投げると、萩の姿が壷の中に消える。機械蝙蝠が壷を足でつかみ、飛び去って行った。
「しばらくすれば、お嬢さんは一切の記憶を失って七虹賓館から帰って来るよ。もちろん事件の事もね。正確な真相は明らかにできないけど、これでQ.E.D.にすべきなんじゃないかな」
 美野梨は力無く頷いた。
「は、はは、は……」
 魂の抜けたような笑い声が聞こえた。細面の男に闇が凝集してきている。
「待たせたね、きさ。もう終わったらしいよ。僕もすぐに逢いに行くから。もうこの世に未練はないし、彼女がいない世界で生きていたって意味ないんだ。…対不起、帝君」
 一瞬、軍服の男を見てそう言った後、細面の男は丸薬を飲み込んだ。
「蓮雨! やっぱり最初から死ぬ気で…!」
 軍服の男が鳩尾に拳を叩き込む。それでも細面の男は反応を示さなかった。体が胡同の壁に当たり、そのままずるずると地面に倒れる。
「畜生っ!」
 軍服の男の叫びが、狭い胡同に響き渡った。

 七虹賓館の黒の間で、清薫は萩と向かい合っていた。
「あらあら、可愛らしいお嬢さんだこと。手が無事なら構わないわ。ねぇ。美しい貴方の全てを…私に見せて?」
 催眠術をかけ、清薫は萩から話を聞き出した。
「萩は、萩の花が好きです。萩の花の赤い色が好きです。そして気づいてしまいました。血の色で萩の花を描いたら、とてもきれいだ、と」
「面白い発想だわ。折角ですから貴女の血で、一筆お願いできるかしら?」
 命じられるまま、萩は己の足から流れる血で萩の花を描いてゆく。それを満足気に眺めてから、清薫は傲然と告げた。
「有難う。用は済みました。お帰りなさいな」

 夜が明けた。命を絶った一人を除き、各々は猫海の日常に戻ってゆく。月と夏刻はしばらく鼠狩りに手間を取られ、美野梨とすばるは萩の帰りを待つ。亮は「連続殺人事件は邪教の仕業」という偽情報を、証拠の勾玉を添えて通報した。清薫は帝に再度招待状を送るが、帝はそれを破り捨てて新撰組の捜査に赴く。
 闇を抱えた街は、誰一人として安らぎをもたらしはしない。

あとがき


小萩PLです。
大変長らくお待たせしました。「猫海1870」をお届けいたします。
天命がだいぶ偏っているなぁとのんきなことを考えていられたのは最初だけでした。
内容上、全員のアクションを完全に採用する事はできないため、誰のアクションをどこまで採用するか、なかなか難しいところでした。
あと、行動分野[発]の人が誰もいなかったので、薬学者のイオは今回登場していません。
それでは、また機会がありましたら!

p.1~1

  • 最終更新:2017-11-04 00:16:02

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