九夜山荘殺人事件(リアクション)
九夜山荘殺人事件
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X年前、九夜山荘付近――。
「警部! 検視の結果出ました!」
白い息を吐いて駆けてきた若い刑事の方を振り向くと、捜査の指揮を取っていた年老いた刑事は、分厚い手袋をした手で報告書を受け取った。
「どうれ……ふむ。死因は凍死、薬物等の反応はナシ、か。となるとやっぱり、事件性は薄いって考えた方がいいのかねぇ? 地元民への聞き込みの方はどうだい?」
「はっ、それが……」
老刑事は片眉を上げて、口ごもった部下に続きを促す。報告書を警部にもたらした部下は、歯切れ悪そうにそれに応じた。
「それが……地元では専ら、『雪女の仕業だ』って噂でして」
「雪女だぁ?」
「どうやらこの辺りには、そういう伝説があるらしく……」
「伝説……ねぇ」
老刑事は見上げる。ちらほらと白いものを降らす、どんよりと灰色に曇った空を。それから一つ老刑事は、白い、長い溜め息をついた。
「妖怪なんざの仕業でたまるかい。一番おっかないのは妖怪なんかじゃなくて……いつの世も、人間の心の闇なんだからよ」
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数時間前、九夜山某所――。
「うー、さむさむーっ! 寝子島ってこんなに雪降るんだー!」
白い空、そして白い大地。その中を一つだけ、赤いものが駆け抜けていった。
赤いジップアップパーカーに、黒いスパッツ。いくら緑野 毬藻仔が北海道出身だからといっても、さすがにこの格好は雪の中を走るには寒すぎる。
「まさか積もるなんて思ってないから、靴も普通の運動靴だしねー。こんなので麓まで駆け下りたら、辿り着くまでに何度も転んで雪まみれになっちゃうよ」
転ばないよう走るのを止め、とぼとぼと歩きながら冗談めかして笑ってはみたけれど、けっこー、シャレにならないな、と毬藻仔は思う。もしも雪に体温を奪われ続ければ、下手すれば……死ぬ。
背中をぞくりと、冷たいものが流れ落ちた。早く、どこか暖かい場所を見つけなければ。
先程まではひらひらと舞い落ちるだけだった雪は、今やぼとぼとと毬藻仔の視界を妨げる。遭難……の文字が毬藻仔の脳裏によぎった、その時だった。
遠くに灯る、黄色い光。
「建物だ!」
毬藻仔の足が、自ずと急ぐ。
「すみませーんっ! 誰かいませんかーっ!」
叫びながら洋館へと近付いてゆく毬藻仔。今はまだ、彼女は自分が何事もなく桜花寮に帰れると信じて、疑ってはいなかった……。
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数十分前――。
(ヤバいヤバいヤバいヤバい……!)
初島 優は途方に暮れていた。背中に背負っていた山の幸が満載の籠も、頭に被った編笠も、体に纏った藁蓑も、既にかなり白いものに覆われている。
猫鳴館住みの優にとっては、山の幸の豊富な九夜山は、毎日の味覚を豊かにしてくれる、頼もしい味方であった。否、猫鳴館生達の今晩の食事は、優の山の幸狩りの成否にかかっていると言っても過言ではなかった。
すなわち、死活問題。
だが、その山の幸狩りが優にとっての死活問題になっていたとは、一体いかなる運命の悪戯か。
吹雪が容赦なく渦を巻き、優の方向感覚を奪い去る。優にできる事はただ一つ、標高の低い方へと兎に角足を進めるのみ――。
「……って、あの光は!」
小躍りする優。あれは間違いなく、人家の明かり!?
「助かったー!」
優は勢い余って背中の籠の中身をぶち撒けたりしないよう、一歩ずつ、着実に、山の斜面を下ってゆく。
握 利平もやはり吹雪に見舞われ、進むべき方向を見失っていた。
「くそっ……。視界が、ってレベルじゃねえ。全部白くて前を向いてるのかすら判らねえ!」
彼がこんな場所までやって来たのは、この先にあるというペンションでバイトがあったためだった。ペンションまで山道をそこそこ歩く事は知っていたが、そこは体力資本の漁師の息子、これから手に入るバイト代を考えれば、大した苦労ではないと高を括っていた。
まさか、こんな吹雪になるとはつゆも思わず。
「くそっ……」
利平はまたもや悪態をついた。雪が本格的に降り始めたとわかった時、少し迷ってから先に進む判断を下したしばらく前の自分を恨む。だが、今となっては最早、戻る事すら叶わない。
けれど、そんな利平にも、やはり運命は微笑んだのだった。
「ん? あれは光?」
洋館だ。
聞いていたペンションはもっと近代的な建物だったはずだから、これが利平の目的地ではない事は明らかだった。だが今の利平には建物を通り過ぎ、目的のペンションまで辿り着く自信などこれっぽっちも抱いていない。
「まあいいさ、兎に角今は助かったぜ。おーい、誰か出てきてくれー!」
けれど、彼に微笑んだ女神が司るのは、良い運命だったのだろうか? それとも果たして、悪い運命だったのだろうか?
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吹雪の中をようやく洋館に辿り着いた優と利平の前に現れたのは、赤毛のショートボブの女性だった。
「あら、あなた達も吹雪のせいで?」
濡れて重くなった髪をかき上げ、馴れ馴れしく握手を求めてくる渥美 ニナに利平は、
「どうも、初めまして。握 利平です(キリッ」
ほら、相手は大人の女性すなわちおっぱいですから、ちゃんと紳士的に挨拶しないとね! 欲を言うならもう少しボリュームがある方が嬉しいけどね!
……などという利平の魂などニナはつゆ知らず、客人達に当面最も重要な事を語って聞かせる。
「どうにも酷い吹雪でしたけど、仮に数日閉じ込められる事になったとしても、この先に食料庫があるので何とか持ちそうですよ」
「おや。それをご存知という事は、この洋館の人ですかな?」
聞き返す優。だが、その問いに答えたのはニナではなく、二階へと続く階段の上の人物だった。
「ノー、ノー。その人もアナタ達と同じで、吹雪のせいで迷い込んだ客人デース」
瞬間、利平が思わず身を乗り出す。
腰まで長いゴージャスなブロンド髪と、抜群なプロポーションの胸元を揺らしながら、カツカツとヒール音を立てて階段の緋色の絨毯の上を降りてきた片言の女性は、自らをロレッタ・ガトパルドと名乗った。
「ここのオーナーなら今日はいないワ。ワタシは彼とは知り合いだけど、彼は今頃、本業の会社経営の方でハードワーク中デース」
利平の視線が自分の胸元に釘付けなのも気にせずに、ロレッタは優達に、バスルームで体を拭いたら皆の集まる大広間に来るよう言い含める。
「それとアナタ……鍵師のニナ、デシタカ? ワタシのものになるかもしれない館を、そんなに漁らないで欲しいデスネ?」
余計な一言を付け加えたロレッタを、ニナはむっとして睨みつけた。
「鍵は元々開いてましたよ? 鍵開けの本職だからこそ、泥棒紛いの事なんてしませんから」
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太陽は、既に山陰に隠れてしまったのだろうか? 嵌め殺しの窓のすぐ外では、真っ暗な闇の中をびゅうびゅうと音を立てて、無数の雪塊を上下の別なく運び続けている。
が、その凍えそうな光景から窓を一枚挟んだ中は、ごうごうと燃えるストーブの音と、隙間風ひとつなく静かに垂れ下がったシャンデリアの光で、まるで別天地のように暖かな空間が広がっていた。
その中で幾つかの集団に分かれて過ごしていた人々の数は、十五名。下は小学校低学年から、上は三十代までと、いずれも共通点らしい共通点のない男女達だ。
そのちぐはぐな宿泊客達を見回して、ロレッタはパンパンと手を叩く。
「それじゃあ、自己紹介を始めマショーウ☆」
館の主の知人だというロレッタがその場を仕切る事に異を唱える者は、この場には一人たりともいなかった。十五名が共に過ごす時間は、こうしてつつがなく始まったのだ……少なくとも、表面上は。
「まずはワタシからネー。ロレッタ・ガトパルド、話した人には話したケド、ここのオーナーの知り合いヨ! 経営がガタガタらしいこのロッジを買い取ってあげて、春から私の別荘にしようと思ったのよ~ン☆」
今日は内見のはずだった、とロレッタが言うと、怪訝な顔をした者がいた。
「失礼だが、どうしてアンタは今日ここに?」
ロッキングチェアをゆっくりと揺らしながら煙草に火をつけたボーイッシュな、あるいはやさぐれた女は、自らを鳳翔 皐月と名乗って続けた。
「その時は私もいなかったが、私の前にここにやってきた奴らから聞いた限りじゃ、アンタは雪の中を歩いてここまでやってきたそうじゃねえか。その、どう見てもハイキングには向きそうにないパンプスでよ」
値踏みするようにロレッタを頭の天辺から爪先まで眺めてから、つまり、と皐月は結論付ける。
「アンタはこの雪の中、どこか途中まで車で来た。勿論、雪山用の装備なんて何もなしで、だ。
結果、車はどこかで立ち往生、アンタはここまで歩いてくるしかなかったってワケだ……なんで雪が降ってきた時点で引き返さなかった? こうなる事くらい予測付いただろうに?」
「べ、別にイイじゃない……事故物件なら急いでセーブしとかないと、って思ったからヨ!」
「事故物件……!」
思わずがたりと音を立てて立ち上がってしまった事に気付くと、司馬 佳乃は慌てて弁解を始めた。
「……失礼しました。私は『神奈川うみねこ新聞』の記者で、司馬 佳乃よ。ちょっと職業柄、気になる単語に反応しちゃったけど、別に何でもないの。皆さん、よろしくね」
そう自己紹介して笑みを浮かべるが、佳乃は内心、穏やかではなかった。
(あの日。私の先輩で、仕事の師匠でもあったあの人は、その事件で命を落とした……そう、まるで今日みたいな、突然の吹雪の日。この山荘の近くで凍死体として発見されたんだった)
その件を言っているに違いない、という佳乃の読みは、別の人物の言葉によっても裏付けられる。
「それってもしかして、あの凍死事件の事……」
「知ってるのネ?」
「ええもちろん。だって、有名ですものね……あっ、私は寝子高ミステリ研の、神野 美野梨よ」
「同じくミス研の、ボクは新井 すばる、探偵さ。ちくわホームズとでも呼んでくれたまえ」
まるでちくわをパイプのように咥え、すばるは皆に向かってウィンクした。ここで二人がただの高校生として名乗るのではなく、あえてミス研の名を出したという事は……この二人が、あの事件に対して少なくとも一定以上の興味を持つ証拠。
上手く協力して情報を引き出したい、と佳乃は考えた。何故ならあれは事故じゃないと、佳乃は信じているからだ。というのも軽装で凍死した先輩の防寒具は、彼の荷物の中に丸ごと残っていたのだから……。
(きっと、誰かが先輩を陥れた証拠が、まだこの洋館の隠されたどこかに……)
けれど、その目的を誰かに知られる事を、佳乃は恐れている。記者の直感――今日集まった十五人の中に、その時の関係者がいるに違いない――が本当に正しければ、真犯人が彼女を口封じする事だってあるかもしれないのだから。
思考を、美野梨の言葉が遮った。
「もしかして司馬さんも、凍死事件の事を?」
どきり。
「ほ、ほら……記者としてはやっぱり気になるものねー」
口の中がからからに渇く。
けれど美野梨は、何の屈託もない笑みを浮かべて、彼女に右手を差し出した。
「ええ、良かったら後で、事件について語り合いましょう」
「ボクからも、是非ともお願いしたいところだね。記者さんなら、ボク達の知らない情報を聞いた事があるかもしれないしね」
美野梨の横から、すばるの右手も差し出される。その瞳には何か、一抹の寂しさと、強い決意が浮かんでいたが、佳乃は、果たしてそれに気付いただろうか?
「ねえネミッサちゃん、じけんって何のことかな? あさひたちもころされちゃうのかな!?」
「安心していいわ、ミス椎名。ええ、怖いことなんて何もないもの。ふふ、きっとこれから、とても素敵な時間になるに違いないわ!」
部屋の隅で震えている椎名 あさひと、ミスタ・ハンプと名付けたハンプティ・ダンプティのぬいぐるみを抱えてあさひを可笑しそうに撫でるネミッサ・ネモローサの二人が、この場の最年少と二番目だった。二人は、小学二年生のネミッサが姉のように、三年生のあさひが妹のように二人で寄り添っている。
「そうだぜ? お嬢ちゃん。お兄さんと一緒にいれば、怖いことなんてぜーんぜんないんだから」
ちょい悪親父なウィンクを見せた『お兄さん』は、そう言ってあさひに投げキッスを寄越した。あさひは少し両目をぱちくりした後、ちょっとだけ考え込んでしまったように見えた。
(あさひ、知ってる……こういう時、ホントはおじさんだと思っても、ホントのこと言っちゃダメなんだって)
もじもじとするあさひに代わり、ネミッサはまるで深窓の令嬢のように、優雅にスカートを広げて会釈する。
「そう? なら、とても楽しいことを期待しているわ、ミスター……」
「飛吹 蓮太郎さ、よろしく! 可愛らしいレディ達は俺の事を、蓮ちゃん、とでも呼んでくれりゃいいさ」
「ええ、よろしく頼むわ、ミスタ飛吹」
いきなり距離のある呼び方をされて豆鉄砲を食らったような顔をする蓮太郎を見て、ネミッサはころころと可笑しそうに笑うのだった。
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「はぁいみんな! いつもうちの愚弟がお世話になっておりまぁす☆」
「あっ、志波先輩も一緒だったんですねー……って握君や初島君もいるじゃん。やっほー」
「緑野もいたのか! お互い、吹雪を避けられる場所が見つかって運が良かったぜ」
「うん、僕も武道先輩とは偶然一緒になってねー」
「オウイエー、優くんの姿を見かけた時にはびっくりしたぜい!」
そんな風に底抜けの明るさで毬藻仔達と挨拶を交わすのは、志波 武道。ひょうきんな彼がいるだけで、館内に閉じ込められて気の滅入りそうな雰囲気が、一気に軽くなったようだった。
「そーいや、ミス研の二人もそうだけど、あっちのコも確か寝子高の一年のコだろ?」
武道が指した先にあったのは、肩にちょこんと山猫を乗せ、白衣の裏まで染み込んだ雪のせいで濡れたナイフの刃を、一つ一つ丁寧に布で拭って手入れしていた少女の姿。
「あー、あれは小刀祢 切奈さんだねー。猫鳴館の部屋に刃物がずらりと並んでる事で有名だよー。時折食料も狩ってきてくれるしねー」
優が本人に代わって少女を紹介すると、少女は気付いて顔を上げ、何やら眠そうな顔で会釈した。
「今日も村雨と一緒に鹿狩りをしていたら、吹雪で遭難しかけたのですよ~。今日はお近づきの印に、切奈のコレクションを見て欲しいのですよ~」
切奈がばさりと白衣を広げると、内側に吊るされた、手斧、鉈……その他の刃物類。レプリカではない、明らかに『然るべき手入れをされた』得物の数々に、さしもの武道も息を呑む。
けれど、それらに驚いたのは、決して武道だけではなかったようだ。
「ちょっといいかしら? それを持ち歩いているのは何のために?」
厳しい視線でつかつかと近寄ってきたのは、切奈達の先輩にあたる寝子高OBにして、木天蓼大学で法曹を目指す四方堂 真矢だった。
「明らかに、刃渡り六センチを越えてるわ。所持理由も、銃砲刀剣類所持等取締法、第二十二条が認める正当な理由があるとは思えないわね……立派な違法行為だから気をつけたほうがいいわ」
切奈に釘を刺しながら、真矢は髪を掻き上げるふりをして矢印型のヘアピンに触れる。ろっこん《アローオブザマインド》が発動し、切奈が抱いている感情の行き先を『視る』。行き先は……特に誰に向けられるでもなく、ただ自らのコレクションに向かうのみ。
それを知って、真矢はふと態度を軟化させた。
「もっとも、私は警官を目指しているわけじゃないから、あまりとやかくは言わないけれど。でも、あまり見せびらかさない方が賢明よ」
忠告を、不快そうに聞いていた切奈。その腹が突如、ぐぅと鳴った。村雨も、つられて一緒にみゃおと鳴く。
武道がパンパンと、皆に聞こえるように手を叩いた。
「ほうらみんな、あんまりお互い詮索し合っても仕方ないさ! 折角食料は十分にあるんだから、まずは親睦会を兼ねて腹ごしらえと行こうぜぇ☆」
「じゃあ、俺がシチューでも作ろうかー。材料あるかなー?」
優が率先して手を挙げると、ニナがすかさず助言する。
「肉も野菜も、もちろんお米やパンもありましたから、シチューの材料は十分ですねー。重要な事ですし、まずは最初に調べましたからね」
そんなニナに、真矢は少しばかり苦言を呈した。
「渥美さんも、あんまり他人の所有する建物をいろいろ漁るのは感心しません」
叱られて、ニナは再び膨れたような表情を見せたのだった。
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鍋の煮立つ、コトコトという小気味のよい音が厨房に響く。
辺りに漂うのはクリーミーなシチューの香り。深い円筒形の鍋を覆う蓋の周囲からは、真っ白い湯気がしゅうしゅうと吹き出している。
重量感のある蓋が鍋の上から取り除かれると、その白が大きな塊となって宙に立ち昇った。鍋の中を掻き混ぜた銀色のおたまに、とろみのあるホワイトソースが絡みつく。
おたまをそっと唇に当てると、優は納得いったように頷いた。
「よし……こんなもんかな、ってうわああ!?」
「うわっ、何の声!?」
隣接する食堂で暖かいお茶を飲んでいた毬藻仔が驚いて厨房にやって来ると、ロレッタが優の背中にぴったりと貼り付いているところだった。
「な、何が起こったの!?」
美野梨も悲鳴を聞きつけ顔を出す。するとロレッタは二人に向けてウィンクして、この山荘はキュートなコばかりね、と舌を出してみせた。
なぁんだ、とぽかんとする二人。そこへと優が、恐る恐る口を挟んだ。
「あのー……そろそろ夕食ができるから、みんなを呼んできて欲しいんだけど」
その頃、あさひとネミッサの自室――。
「ねえネミッサちゃん、どこかへ行くの? そろそろ、ごはんができるころだよ?」
柔らかく暖かな絨毯にぺたりと座り込んでいたあさひが、ミスタ・ハンプを片手にドアノブに手をかけたネミッサへと、不安げな表情を見せた。対するネミッサは、可笑しそうにすました笑みを見せるのみ。
「大丈夫よミス椎名、怖い事なんて何もないわ。今日はきっと、楽しいことばかり」
「あさひ、ネミッサちゃんと一しょにいる時が一番楽しいのに」
心細そうに這い寄るあさひ。人差し指をそっと三日月形に歪んだ唇に添え、ネミッサはころころと笑い声を上げる。
「いい子にしてて、ミス椎名。さもないと……」
ミスタ・ハンプがネミッサの手から落ちる。瞬間、あさひははっとして動きを止めた。
ネミッサは再びころころと笑いながら、薄暗い廊下へと出て行った……ミスタ・ハンプをその首にかけた紐で、まるで首吊りのようにぶら下げながら。
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ひた……ひた……。
誰もいない廊下に一つだけ、誰かの足音が響いていた。
……ぴたり。
足音が止まる。ギィと軋みを上げて開く扉。足音は、廊下から部屋の中へと移動する。
手探りで何かを探す物音に続いてカチッという音が鳴ると、机上のランプが暖かな光を放ち始めた。
「おお……!」
感嘆の声を上げる侵入者……その正体は、利平だ。彼は机の脇に無造作に積み重ねられた雑誌の山を発見すると、しゃがみ込んでその内容を検め始めた。
「こ・れ・は!」
利平の顔がきりりと締まる。
「大人の写真週刊誌じゃねーか!
知ってる、知ってるぞ! 中身はスキャンダル記事だけじゃなくて、お色気写真もあるはず! こいつぁ、めっけもんだぜ!」
まず、水着アイドルのグラビアが表紙となった一冊を手に取ってみる。紙質の違う部分を頼りにページを開こうとすると……指先に、紙の折れ目が引っかかった感触が電撃のように走った。
「!!」
間違いない、これは……ふ・く・ろ・と・じ!
「袋とじ! それは封印されし魔書!
袋とじ! それは禁断の芸術!
どうやら俺も……」
ごくりと喉が鳴る。右手で思わずネクタイを整えるようなジェスチャーをして、一つ大きく深呼吸。
「……俺も、大人の、階段を登る時が来たようだな……おおっ、こ、これは!!」
室内に聞こえるのは利平の荒い鼻息と、時折ページをめくる際に出る微音だけ……果たして、本当にそれだけだろうか?
袋とじに夢中な利平は気付かない。半開けになった入口扉から差し込む光を、何者かの影が妨げた事に。
そして、それが少しずつ自分の方へと近付いてくる事に。
鈍い輝きが艶々しいページに映り込む。
ようやく、背後の気配に気付いて振り返った利平の目には――。
“Lizzie Borden took an axe,...”
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「そいじゃ揃ってない人もいるけど、いっただっきまぁす!」
「「「いただきまーす!」」」
晩餐の場は、武道がいればそう暗鬱になる心配もなかった。
「へー。やっぱり猫鳴館暮らしは料理の腕が違うねー」
「まあねー。これくらいの料理ができないと猫鳴館じゃ文字通り生きてけないからー」
毬藻仔にシチューの出来を褒められて、優は照れたような表情を見せた。何でも触れたものの仕組みを分析できるろっこん《技術者の目》があれば、美味しい料理の仕組み――すなわちレシピも、段々溜まっていく一方だ。
(猫鳴館、ね……法的には不法占拠のはずなんだけど)
二人の会話を聞いて高校時代を思い出し、複雑な表情をする真矢。大学の講義の復習も兼ねて、刑法と民法両方の視点で、関連する条文を思い浮かべてみる。
「あら小刀祢さん、寝間着になってる?」
「ちょっとシャワーを浴びて、箪笥にあった寝間着に着替えたのですよ~。ねえ村雨?」
食事にかぶりついていた村雨は、ふと顔を上げてみゃおと鳴いた。
「ニャー?」
「みゃーお」
美野梨が切奈に続き村雨にも話しかけてみると、村雨も何事か鳴き返す。
『おいおい、俺にレディのシャワーの事なんて訊かないでくれよ』
『あらごめんなさい、そういうつもりじゃなかったんだけどね』
そう謝ってから美野梨は、ろっこん《猫との語らい》の使用を終えた。今は猫とのお喋りよりも、目の前の食事に集中しないと。
「ところで誰か、握君がどこ行ったか知らないか? どうやら部屋にはいなかったらしいんだ」
けれどすばるの言葉に、知っていると答えた者はいなかった。
「まさか、行方不明……?」
驚いて立ち上がりかけた佳乃を宥めるように、皐月が横から口を挟む。
「単に、部屋以外を探してないだけだろ? 食事が終わるまでに来なかったら、その時に探せばいいはずだぜ?」
「……そうね」
妙な胸騒ぎを感じつつも、その場は落ち着きを取り戻す佳乃。だが記者の勘は、後から思えば決して間違ってはいなかったのだ。
不意に首を傾げて、蓮太郎が突然言い出した。
「ちょっといいか? さっきから、何か鉄臭い匂いがする気がするんだが……こりゃ何だ?」
言われてみれば微かに、鉄臭さと生臭さが混じった匂いがしてくるようだった。一度嗅いでしまったが最後、その後ずっと気になり続け、料理の香りに混ざって食事を不味くする類の匂い。
何人かが席を立ち、匂いの元を確かめにゆく。
薄暗い廊下を、蓮太郎達は恐る恐る進んでゆく。
「この匂い、以前にも嗅いだことが……。そう、病院で、よく……」
彼らは、最も匂いの濃い、一枚の扉の前で立ち止まった。静かに、ノブを回す。
「鍵がかかってる」
すばるが言った。
「マスターキーは?」
「それを持ってるのはオーナーだけネ」
ロレッタは肩を竦めてから、低い声で一言。
「壊さなければ開けていいわヨ」
ニナは言われるがままに、懐から商売道具を取り出した。それをそっと古い鍵穴へと突っ込もうとして……。
「……あれ? よく見るとここに傷がついてますね? それに中の機構も壊れてます。これはちょっと骨ですね……」
とはいえニナの手にかかれば、鍵穴から壊れた部分を取り除いて扉が開くようにするまではそう難しくはなかった。
封印されていた扉が、音を立てて開く。と同時に、一段と濃いあの匂いが、もわっと廊下にまで溢れ出る!
「おい、アレは何だ……?」
部屋の奥の机の隣に、何かがうず高く集まっているのを蓮太郎は見て取った。そしてロレッタに促され、手にした懐中電灯をそちらに向けると……。
「ギャアアアアァァァ……!!!」
「ジーザス・クラーイスッ!!!」
そこにあったのは、割られた額から血を流し、全身をくまなく切り裂かれた、無残な利平の姿だった。
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「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。私は閉じてた鍵を開けただけですよ? どうして私が犯人と疑われなくちゃならないんです?」
思わず声を荒げたニナが、ドンと両手でテーブルを叩く。佳乃がふと、まさか密室を作れるのは彼女だけなのでは、と口にしたためだった。
「だいたい私は、ここで初めて彼を知ったんですよ? 動機なんてありませんし、そもそも私なら鍵を壊して部屋を閉じる必要なんてないでしょう?」
「確かにな」
皐月は頷いた。けれども次に、こう続ける。
「……だが、そうミスリードさせるのが犯人の思惑だった」
それから皐月は煙草を一服すると、斜に構えたような薄笑いを浮かべてみせた。
「……なーんてな。
こういうのは、決めつけてかかると真犯人の思う壺だぜ、記者さん? それとも何か、急いで犯人を見つけなきゃならねえ理由でもあるのかい?」
灰皿に煙草の灰を落としてコーヒーをすする皐月にじっとりと視線を向けられて、佳乃は気まずそうに引き下がった。
(犯人探しを急ぐ理由ならある。だって犯人は、もしかしたら先輩を殺した人かもしれないんだから……)
けれども佳乃は思い直す。確かに皐月の言う通り、この際焦りは禁物だ……何故なら焦れば、彼女の目的が犯人に悟られてしまうかもしれないのだから。
ところで、と皐月は話を変えた。
「まずは、皆が調べたところを聞かせて貰いたいね」
「ちょっと待って、調べたってどういう事? 今は現場を保全して、警察の捜査を待つべきだわ」
真矢が異を唱える。その指摘は確かに正論に違いなかった……ただしその前に、『一般論では』という但し書きがつくが。
毬藻仔が申し訳なさそうに訳を話した。
「それがさ……さっき通報しようと思ったんだけど、通じなくてねー。電話線が切れたのか館の電話は反応がないし、何故か携帯も電波が届かないし」
それはすなわち、館の孤立状態が回復するまで、十五人――今は一人減って十四人――は利平を殺した犯人と過ごし続けねばならないという事を意味していた。
または、自らの手で犯人を……せめて犯人の動機を暴かねば、その間ずっと、次に殺されるのは自分かもしれないという恐怖に怯えながら過ごさねばならないという事。
「正直握君が殺されたって聞いたって、私はまだ実感ないんだけどさ。不安だし、いつ来るかわからない警察を待つよりも、今、自分達でできる範囲で何とかしなきゃ、って気持ちだけはあるんだよね」
そこまで言われてしまったら、真矢ももう、何も言えなかった。皆、興味本位の探偵ごっこをしているわけではない。もしかしたら自分も殺されるかもという不安の中で、今できる事をしているだけなのだから――。
「まず一つ、わかった事があったんだ……」
そう切り出した優の顔からは血の気が引き、半ば死体のように蒼白になっていた。利平の死因を特定できないだろうかと思って使った《技術者の目》の光景は、優の目に今も焼きついている。
それでも優は、搾り出すように言葉を続けた。
「握くんの傷だけど……頭の傷は斧か何か、体のは……たぶん、サバイバルナイフの一種だと思う……」
皆の視線が、切奈へと集まった。手入れをしていたナイフを指先でつまみ、ひらひらと顔の前で振ってみせる切奈。
すばるがその横に立ち、そっとその手を押さえて下げさせた。
「いい品だ……手入れも完璧。けれど、コレクションは素晴らしいが、悪人に利用されるとコトだ。今度ゆっくり拝見させて欲しいね」
切奈に向けてウィンクするすばる。それから彼は皆の方を仰ぎ、こう続けた。
「もちろんこれは凶器じゃないよ。そうだね? 小刀祢さん」
けれども切奈は、心底愉快げに証言する。
「あの傷口は、確かに私のコレクション……あれは珍しいナイフですから、間違いないのですよ~」
それから可笑しそうに口元を吊り上げて、
「ですが私は、狩り以外で殺生をする気は毛頭ないのですよ~。誰かが勝手に持ってったんじゃないですか~?」
『どうなの、村雨君』
『ナイフはその辺に放置してあったぜ。盗ろうと思えば誰にでも盗れたろう』
村雨の話を聞き終えた美野梨が立ち上がった頃、優もそれを裏付けるように証言を続けた。
「実際、死因は斧の方だったみたいだ……ナイフの傷は、死後のものかもしれない」
しばしの沈黙。
今のところ、利平を殺した凶器も、犯人の動機も、何もかも見つかっていない。
重い空気に耐え切れず、ロレッタが唐突に甲高い声を上げた。
「マーダラーと一緒の部屋なんてヤだわ! ワタシはルームにステイさせてもらうネ!」
誰も彼女をを責める事などできまい。事件の真相を暴いて見せようと意気込んだり、殺人犯が自分の前に現れたら必ず返り討ちにしてやろうと決意する者がいないわけではなかったが、ほとんど誰もが再び起こるであろう事件の予感を感じ取り、多かれ少なかれ恐怖を感じていたのだから。
その時パンと、両手を叩く音がした。
「まーまー、こんな時こそ明るく行こうぜい! 暗くなったら犯人の思う壺! ほーら、なるべく単独行動しないようにしとけばダイジョブダイジョブ!」
武道がひょうきんに振舞ってみせても、自分達の中の一人が殺された、その事実は変わらない。
けれども場の空気は、それ以前と比べればほんの僅かに、軽くなったようにも感じられた。
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十四人は、幾人かで連れ立ちながら部屋へと戻った。互いに、絶対に一人にはならない事、何かあったらすぐに誰かの助けを呼ぶ事を約束しつつ。
佳乃はすばると美野梨の部屋で、ツインベッドの片方に腰掛けて、別の側に並んで座る二人と向かい合っていた。
「早速だけど今回の事件、例の事件と関係あると思う?」
「共通点ならあるわ」
淡々と答える美野梨。
「どちらも、唐突に不自然な吹雪に見舞われた。まるで、雪女の怒りを買ったみたいに――」
「ちょっと、そんな非科学的な! それに今回は、死因は確かに刃物なんでしょう?」
「非科学的なことを信じられないのはわかるわ。でも目の前にあることが現実なの」
声を上ずらせる佳乃をじっと見つめてから、美野梨は続けた。
「非科学的かどうかは、受け取り方次第なの。情報で裏打ちできれば、どちらの事件も科学的に説明できるものよ」
「そうね……まだ、情報が足りないわね……」
肩を落としながら自室に帰ってゆく佳乃を見送った後、すばるは不意に美野梨の名を呼んだ。
「ボクとしては、何でもかんでも雪女に関連付けようという姿勢は感心しないな」
本当は、感心できないどころの話じゃない。二つの事件を強引に重ねた結果、もしも彼女が『あの事』を知ってしまったら――。
最悪の想像を脳裏から振り払うと、すばるは一度口を噤んだ。
あさひは一人ベッドに潜り込み、静かに絵本を読んでいた。聞こえるのは、ネミッサが浴びているはずのシャワーが立てる水音のみ。
その時あさひの両耳が、ギィという音を聞きつけた。
部屋の扉には確かに、鍵をかけたはず。それを開けられるのはあさひを除くと、ネミッサだけのはずなのだが。
「ネミッサちゃん?」
名を呼んで、恐る恐るバスルームへと。けれど中から聞こえてくるのは、シャワーの音だけだった。
「ネミッサちゃん……?」
もう一度名を呼ぶ。返事はない。まさか……!
意を決して戸を開ける。……いない。
じゃあ、さっきの物音は、やっぱり……。
(ネミッサちゃん、あさひをだまして一人で出て行っちゃうなんて、ダメだよー……!)
慌ててネミッサを追うあさひ。それが彼女の運命を、大きく変えてしまうとも知らないで。
「すみませんガトパルドさん。こんないい部屋に呼んで貰っちゃってー」
「ノーノー、マリモコ。ロレッタでいいワ♪」
毬藻仔が訪れたロレッタのスイートは、それまで毬藻仔が使っていた部屋の倍の大きさはあっただろうか。その上室内ワインセラー完備、キングサイズのベッドやバスルームが二つずつあるという豪華仕様。
この部屋の中にいると、ついさっき起きたばかりの忌まわしい事件など忘れてしまいそうだ、と毬藻仔は思った。死んだのは、同じ学年の知り合いだというのに。
「よし……っ」
こんな時は、気分を入れ替えよう。毬藻仔にできる事は、それくらいしか残っていなかった。
「それじゃあ、お風呂借りていいですか?」
「もちろんヨ☆ それじゃあワタシも入ろうかしらネ?」
「そ、それはご遠慮しておきますっ!」
「あら、一緒に入るなんて話はしなかったケド、期待してたカシラ?」
逃げるように左のバスルームに駆け込む毬藻仔の後姿を見送ると、ロレッタは一度大きく伸びをして、右のバスルームの中へと消えていった。
→p.1~11
- 最終更新:2015-02-26 19:05:27